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映画「蜜蜂と遠雷」原作未読感想|はしょられているらしい点は気になりつつ映画として楽しめた

映画 蜜蜂と遠雷 感想

映画「蜜蜂と遠雷」、クラシック音楽好きの夫と見ました。

自分は、映画の本選場面で登場する
バルトークは合唱曲と「かかし王子」(バレエ音楽)、
プロコフィエフは「ロミオとジュリエット」(バレエ音楽)で知っていますが、
ピアノ曲やピアノ協奏曲は自分からはあんまり聞かないです(^^;

原作は恩田陸の同名小説。映画を見た時点で私は小説は未読です。

単行本で500ページを超える長編小説を、約2時間(1時間58分)にしたために、
小説では書きこまれていた部分が大分はしょられているだろうな、という点が多く、
主要キャラクター4人の背景や心理の描き方がさらっとしすぎているのでは?と感じたりもしたのですが、

見ている間は呑まれてしまう勢いがあり、
映画館で見る映画、としては十分に楽しめました。

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ストーリーをすべて追ってはいませんし、コンクールの結果には触れていませんが、
それ以外の点については、感想はネタバレは気にせずに書いていますので、
これから映画を見る方はご注意ください。

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映画「蜜蜂と遠雷」あらすじ

蜜蜂と遠雷

3年に一度開催され、若手ピアニストの登竜門として注目される芳ヶ江国際ピアノコンクール。
かつて天才少女と言われ、その将来を嘱望されるも、7年前、母親の死をきっかけに表舞台から消えていた栄伝亜夜は、再起をかけ、自分の音を探しに、コンクールに挑む。
そしてそこで、3人のコンテスタントと出会う。岩手の楽器店で働くかたわら、夢を諦めず、“生活者の音楽”を掲げ、年齢制限ギリギリで最後のコンクールに挑むサラリーマン奏者、高島明石。幼少の頃、亜夜と共にピアノを学び、いまは名門ジュリアード音楽院に在学し、人気実力を兼ね備えた優勝大本命のマサル・カルロス・レヴィ・アナトール。
そして、今は亡き“ピアノの神様”の推薦状を持ち、突如として現れた謎の少年、風間塵。国際コンクールの熾烈な戦いを通し、ライバルたちと互いに刺激し合う中で、亜夜は、かつての自分の音楽と向き合うことになる。果たして亜夜は、まだ音楽の神様に愛されているのか。そして、最後に勝つのは誰か?

公式サイトより)

映画「蜜蜂と遠雷」感想

劇中演奏されるピアノ曲と、劇伴として流れるピアノ曲、とにかく、音の波の中にずっと浸っていられて、コンサートホールで演奏を聴いているような充実感。

亜夜と母親の回想シーンや、亜夜と塵が夜の工房でピアノ弾くシーンなど、映像が美しいな、と感じるシーンも多くて、映画館で見てよかったです。

表だってのストーリーは、コンテストニスト4人が互いに影響しあって変化成長するというものなんですが、
彼ら4人の物語、といよりも、

ピアノの神様と呼ばれたホフマンが送り込んだ無名の少年・塵が台風の目となり、
コンテストに関わっている人々が、音楽の本質に向かい合う姿を描く、という印象。

塵とホフマン先生との約束「音を外へ連れ出す」が、そのままの言葉で語られないのはなぜなんだろう?という疑問はありますが。
(原作読んでないので、夫からの情報です)

映画の中では、

「世界が鳴っている」ことが、雨の音、遠雷の音で繰り返し表現されます。

「世界は音楽で満ち溢れている」のは、人が自然の音を音楽として聴くためであり、

さらに、演奏家は、自らが「世界を鳴らす」存在となろうとする。

指揮者小野寺昌弘(演・鹿賀丈史)が、本選前のコンサートで、

演奏家個人が出す音一つ一つは刹那に消えてしまうが、そこからできる音楽は永遠につながるものだ、

というようなことを語りますが、

この映画に登場する音楽に関わる人みんなが、そういう音楽を存在させようとしていて、
一見エゴイストだったり、不遜に見えたりしても、根本のところでは共感できるんですよね。

亜夜(演・松岡茉優)、明石(演・松坂桃季)、マサル(演・森崎ウィン)、風間 塵(鈴鹿央士)は4人それぞれのキャラにぴったりはまっています。
実は、それほどキャラの背景や心理が描かれていないよね?という面が、鑑賞中はあまり気にならなかったのはキャスティングがよかったのかも。

松岡茉優さんは、昨年映画「blank13」で、主人公の恋人役で見たときのインディーズっぽい感じとはまた違って、
おもしろい女優さんだなあ、と思います。

音楽をテーマにした映像作品では、
音楽のすばらしさをモノローグで語りすぎてうっとおしい、と思うこともよくあるんですが(^^;
この映画ではそういう表現ではなく、

客席やで聴いている登場人物の表情、
ロビーや音響ブースの会話が適度にさしはさまれていたのも好印象です。

映画「蜜蜂と遠雷」で物足りなかったところ

私は原作小説を読まずにまず映画を見ましたが、おそらく文章で書かれている情報が相当はしょられてますよね。
単純にボリュームで考えても、500ページの長編小説の内容をすべて2時間の尺に入れるのは無理です。

そもそも小説と映画では描き方も描けるものも違うので、全く同じ内容である必要はなく、
原作のある面にだけ焦点を当てて切り取る、という映画化だってありだと思いますが、
「蜜蜂と遠雷」の場合は、カットされたことで重要な設定やモチーフが分かりにくくなっている面があるんじゃないかと思います。

まず、タイトルの「蜜蜂と遠雷」からして、
遠雷は、世界が鳴っていることの象徴だとして、
蜜蜂は、塵の親が養蜂研究家である、という設定の他に、何か意味があるのか、映画だけではわかりませんでした。

原作のホフマン先生と塵の約束が「音を外へ連れ出す」だとすると、養蜂家の父とともに自然に近いところで育った塵にそれを託した、という意味での、蜜蜂なのかなあ、と想像します。

亜夜が20才でラストチャンスとしてコンクールに出場しようと思ったきっかけが何か?も映画では分からなかったのですが、これは小説では描かれているのかな。

あと、繰り返し出てくる黒馬のイメージに違和感があって・・・
冒頭で亜夜が最初の音楽の記憶をモノローグする場面からこの馬が出てくるのですが、日本人の幼い女の子の記憶やイメージで「馬」ってなんか唐突じゃないですか。

全体的に、映画では、主要4人についてあまり掘り下げられていなくて、さらっと流れていると思います。

違和感といえば、岩手在住の28歳の明石が、「永訣の朝」の有名な一節を知らないのもびっくりしました。
岩手以外の地域でも、高校の国語の教科書とかにでてくる詩だと思うのですが。
ずーっとピアノのこと以外は関心がなかった、という意味なのかなあ。

この、「永訣の朝」を含む「春と修羅」をテーマにした新曲が、二次予選の課題曲なんですが、
映画では、演奏がコンテストニストが自ら作曲するカデンツアがあることにのみ焦点が当てられていましたが、
宮沢賢治の仏教思想とか、生き方とか、なんかもっと意味があるのかも?という気もします。

カデンツアは独奏楽器や独唱者が自由に即興的な演奏をする箇所のこと。
オーケストラ伴奏がある曲であっても、カデンツア部分はオーケストラの伴奏を伴わない。

映画では、ピアノ独奏曲の課題曲「春と修羅」で楽譜の一部が五線譜のみとなっており、コンテストニストがそれぞれ作曲して演奏する、なっていました。

映画は何作かに分けても良かったのかな、という気がします。

まとめ

映画「蜜蜂の遠雷」は、見ている間は、音楽と映像の勢いでダレることもなく、映画館で見てよかったと思っています。
キャスティングも、小さい役に至るまでよかったと思います。

クローク係の女性が片桐はいりなのが、ムダにインパクトありすぎ?と思いましたが、
終盤になると、彼女もまた、「音から音楽を聴こうとする人の1人」なんだな、と思います。

ただ、映画館から出てちょっと落ち着いてみると、
実は、伏線もほぼなく、個々のキャラクターについてはあまり深く描かれていない?
って思うんですよね。

世界に満ちる「音」を「音楽」として聴き、それを奏でることに人生を捧げた人たちの「世界」の描かれ方としては興味深い点がいろいろありました。

天衣無縫な天才・塵を、ギフトとするか、災厄とするかは(クラシック音楽界にいる)私たち次第だ、という故ホフマンの推薦状。

著名な演奏家ではあっても自分は歴史に名を残す存在ではないというコンプレックスが
我々にコンクールで神童を探させているのが、という三枝子とナサニエルの会話。
(斎藤由貴が演じる嵯峨美枝子はいいキャラでした)

コンポーザーピアニストとして新しいクラシック音楽を作りたいというマサル。

塵を推薦したホフマンの意図は、
自然から音を取り出して音楽にする、従来のクラシック音楽から、新たな世界に踏み出すことであり、
最後の塵の「見つけたよ」は、亜夜を、そのためのなんらかの担い手として見つけたということなのだろうけれど、
映画では、そこがもう少しはっきりしなかったと思います。

原作読まなきゃ。



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